なぜ何もかもうまくいかない? わたしは「境界知能」でした
2021年7月30日 【NHK】
「勉強も仕事も結婚もすべてうまくいかず、気づいたら20年ひとりぼっちで過ごしていました」及川奈穂さん、57歳。これまでの人生は、苦労の連続でした。
勉強は小学校低学年からついていけず。仕事の覚えが悪く何度も職場から解雇される。人間関係もうまくいかず、結婚生活も長く続かなかった-
なぜ何もかもうまくいかないのか?検査を受けて告げられたのは「境界知能」でした。(大阪拠点放送局 ディレクター 磯貝健人)
「境界知能」とは、知能指数の「境い目」の部分
「境界知能」とは、いったい何なのか。「境界知能」は、知能指数(=IQ)に関係して、専門家の間で用いられている言葉です。「知能指数」で、「平均的」とされる部分と、「障害」とされる部分の「境い目」にあたるところが、「境界知能」と呼ばれています。当事者の及川さんは、「その実態を知って欲しい」と、今回取材に応じてくれました。
すべてがうまくいかなかった人生
及川さんは、群馬県高崎市で1人暮らしをしています。料理や洗濯、掃除などの家事はすべて自分で行っています。私たちの質問にも、ひとつひとつ丁寧に受け答えをしてくれ、何十年も前の出来事を細かく覚えているのが印象的でした。
一見、何の不自由もないように見える日常生活。何もかもうまくいかないとはどういうことなのか。「実は買い物で困ることが多いんです」と及川さん。私たちは、スーパーでの買い物に同行させてもらいました。この日、買いに来たのは乾電池。値段の異なる2種類の乾電池を手に取ると、及川さんはその場でしゃがみ込んでしまいました。2本で329円と4本で398円、どちらが割安か…
外出時には常に持参しているというメモ帳を使って、計算を始めました。
「2本で329円だから、4本だと600円と…」
電池の購入を決めるまでに、約8分かかりました。
及川奈穂さん
「何かを素早くするということが、どうも苦手で…。時間を気にしないでいいなら、出来るんですが…」
障害者のクラスに入るも 通常クラスへ戻され…
及川さんが、周囲との違いに最初に気づいたのは、小学校低学年のころ。算数が苦手で、授業についていくことができなくなりました。そのため、障害のある子どもたちのクラスに入ることになった及川さん。しかし、周りに比べると、学習に支障がないと見なされ、すぐに通常のクラスに戻されました。
及川奈穂さん
「普通にできることもあって、周囲からはやる気がない、怠けていると見られることが多かったんです。私は私なりに一生懸命やっているのに、なんで怒られなきゃいけないのかなとか、悲しくなりました」
パンの名前覚えられず 数字も弱く
当時を思い返しながら語る及川さん。その目には涙が浮かんでいました。不自由さを抱えながらも、通常の教育を受け、高校へと進学。専門学校を卒業した後に社会に出ると、新たな壁が立ちはだかりました。
パン屋で働いていたときのことです。何度教えられても、商品を決められた場所に並べることができません。カタカナの多いパンの名前の覚えられないことが原因でした。数字にも弱く、レジ打ちでのミスも目立ちました。周囲からの冷たい視線に耐えられず、退職を余儀なくされました。
及川奈穂さん
「これ以上、わたしがここにいてはいけない空気を感じとってしまい、自分から申し出て辞めることにしました。職場全体がそういう雰囲気になったことに耐えられませんでした」
検査の結果「知能指数が境界レベル」
その後に就いた仕事も長続きせず、10以上の職を転々とした及川さん。32歳のときに出会った男性と結婚しましたが、ほどなくして離婚。なぜうまくいかないのか-
35歳となった2000年、初めて病院で検査を受けることを決めました。そこで告げられたのは、思いもよらない結果でした。
「IQ73 境界レベル」
知能指数(=IQ)が、平均的ではないが、障害でもない「境界知能」だとわかったのです。
及川奈穂さん
「初めてみたときには、何が何だか意味がわからなかったです。本なんか読んでみると、確かに正常値ではないんだけれども、低いわけじゃないみたいな、そういう分かりにくいところなんです」
「境界知能」だと分かり 腑に落ちた
自分の知能指数が平均を下回っていたことにショックを受けたという及川さん。その一方で、結果がわかったことで“安堵した”ともいいます。
及川奈穂さん
「これまで勉強や仕事がうまくいかないと、『私の努力不足なんじゃないか』と感じていたし、親や周囲からもそう言われてきました。でも、境界知能だとわかり、腑に落ちたというか、サボっていたわけじゃないんだと救われた気がしました」
“生きづらさ” 周囲に気づいてもらえぬまま
「境界知能」とは何なのか、もう少し詳しく見ていきます。知能指数(=IQ)は、一般にIQ85-115が「平均的」とされています。おおむね70以下は、「知的障害」の可能性が考えられる範囲です。(※「知的障害」の基準は、自治体によって異なります)
その境い目にあたるのが、「境界知能」と呼ばれる領域です。その数は、統計学上は人口の約14%、1,700万人に上るとされています。専門家によりますと、この中には、知能指数とは別の指標で発達障害と認められる人もいるということですが、「境界知能」は「平均的とは言えないが、障害とも言えない」とされることが多いといいます。このため、その“生きづらさ”に、周囲に気づいてもらうことができないまま、人生を過ごしてきた人が多くいるとみられるということです。
「境界知能」は社会の認識不足が問題
医師として「境界知能」の人たちを診てきた青山学院大学・古荘純一教授は、「境界知能」は広く社会に認識されていないことが問題だと言います。
青山学院大学・古荘純一教授
「境界知能の人たちは、知能検査の結果だけでは知的障害とも発達障害とも診断されないため、教育や福祉の支援につながりにくいのです。また、自分自身も周囲の人も気づかないことが多々あります。こうした理解のなさが、当事者の人たちを苦しめてきました」
「境界知能」にあたることを初めて知った及川さん。
求職活動中の採用面接で、ある企業の人事担当者から言われたことを、いまも忘れることができません。
及川奈穂さん
「『あなたが障害者だったなら、受け入れられたんだけど、そうじゃないとわかったので、雇用することはちょっと厳しいですね』って言われました」
その企業は、法律に基づいて障害者を雇用していましたが、「境界知能」の及川さんは障害者に該当しないため、雇用できないと言われたのです。
及川奈穂さん
「私は私なりにすごく一生懸命仕事しているのに、障害者じゃないからだめと言われると、何をみて仕事をさせてもらえないのかと思いました。中途半端な人は、会社ではダメなのかと。境界知能の私は、一体何者なんでしょうか」
“負の連鎖”に陥っている可能性も
「境界知能」にあたる人たちが直面している困難に、もっと目を向けるべきだと訴えている専門家もいます。立命館大学の宮口幸治教授は、児童精神科医として、精神科病院や医療少年院で勤務した経験をもとに、そこで出会った境界知能の子どもたちの実態を書籍にまとめました。
2019年に発行されて以来、70万部を売り上げ、「境界知能」に関心が寄せられるきっかけとなりました。宮口さんが懸念しているのは、「境界知能」の人たちの間で、“負の連鎖”に陥っているケースもあるのではないかということです。
宮口さんが着目したのは、法務省が公開している令和元年の新受刑者の能力検査値のデータ。境界知能に該当する人(IQ70-84)は、人口の約14%。対して新受刑者の場合、「IQ70-79」だけで21%以上に上ります。
宮口さんは、次のような“負の連鎖”が起きていないか懸念しています。
『日常生活や勉強、仕事、人間関係などで困難を抱え、生きづらさを感じているにも関わらず、教育や福祉の支援を受けられずに社会的な孤立や経済的な困窮に陥り、罪を犯してしまうケースもあるのではないか。さらにはうつ病になって自殺をしてしまう、そういった悪循環も起きていないか』
立命館大学・宮口幸治教授
「境界知能の人たちの大多数は、社会規範を守って、普通に生活している。ただ、中には“負の連鎖”に陥っている人がいる可能性があり、そこにはしっかりと目を向けなければいけない」こうした“負の連鎖”に陥らないために、何よりも重要なのは、「早期発見・早期支援」だと宮口さんは指摘します。そのためには、「境界知能」や「障害」についての知識や理解が、社会全体に浸透していくことが欠かせないといいます。
早い段階から“トレーニング”で改善を
では「境界知能」の人たちに、早い段階からどんな支援ができるのでしょうか。
宮口さんは、小学校の子どもたち向けのトレーニング法を開発しています。
大阪の和泉市立国府小学校では、宮口さんが開発したトレーニング法を実践しています。
具体的にどのようなものかというと…
例えば、ひらがなや漢字が苦手な子どもが行うのは、「点つなぎ」というトレーニングです。点と点を結んで作られた絵を同じように描き写します。
なぜこうしたトレーニングをするのか?
字の習得が苦手な子ども場合、なぜ苦手なのかを分析すると、目で見たものの形を捉え、書き写す力が弱いからではないかと考えられています。このため、「点つなぎ」のトレーニングを毎日10分程度続けることで、ひらがなや漢字を習得する力を少しでも高めようとしています。
計算が苦手な子どもたちが取り組むのは、星のマークを5つずつ囲んでいくトレーニング。数をまとめながら足していく作業を繰り返すことで、計算するスピードを少しでも速めようとしています。この教室では、子どもの苦手な部分に合わせて、約30種類のトレーニングを行っています。
取り組みをはじめて5年。
この学校では、トレーニングを受けた子どもの約3割が、通常の授業にもついて行けるようになったといいます。宮口さんは、境界知能の人も、学習の土台となる「認知機能」の強化に取り組めば、状況を少しでも改善できると指摘します。
立命館大学・宮口幸治教授
「認知機能とは、見たり、聞いたりした情報を理解し、記憶する力のことです。国語や算数など学習の基盤になるこの力を伸ばすことで、伸びていく可能性があります。少しでも早くトレーニングを受ければ、改善する可能性は高くなります。出来ることが多くなると、自分に自信を持って成長していくことができます。周囲の人が、気づき、理解してあげることが大切だと思います」
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知能検査は、標準的な視覚や聴覚の力(視力や聴力の事ではなく視知覚や音韻意識という力)がある子どもを前提にして作られている検査です。従って知能に遅れがなくてもIQが低く出る子どもがいます。境界知能の子どもの中には、本来の知能は高くても、見え方や聞こえ方、数量感覚の弱さがある子どもが含まれています。これに大人が気付いて低学年のうちに専門的で適切なサポートをすることによって、3割程度の子どもが高学年になって知能検査をすると標準域にまで上がることが知られています。
知的障害(知的発達症)は能力の全般的な遅れを指しますが、軽度知的障害と言われる子どもの中は、部分的な弱さが原因で自信を失い学習性無力感に陥っている学習障害の子どもが含まれていると言われます。学習障害で効果の上がりやすい支援は人によって違いますが、宮口先生のコグトレ(認知機能トレーニング)は、視知覚が弱い人には効果があるトレーニング法なのだと思います。ドリル形式なので専門的な支援力量は必要としないので広がりやすいのだと思います。
ただ、文字を読むデコーディング(復号化)機能や文字を書くエンコーディング(記号化)機能に弱さがある人、発達性読み書き障害(ディスレクシア)のアセスメントや支援については、我が国ではまだまだ広がっていません。これは、我が国の読み書きの殆どが一音一文字という英語圏とは違う分かりやすさ(復号化・記号化の負荷が軽い)を持っているために、年齢の早い段階で発見できなかったことにあります。最近の我が国の調査では、ディスレクシアの比率は他人種と変わらず、軽度まで含めて知的障害のない人の1割程度を占めていることが分かってきました。
我が国の発達障害はADHDとASDという行動の問題は着目されやすいですが、学習障害は勉強の問題と勘違いされ軽視されがちです。学習障害の子どもたちの支援は、多様性社会を進めていくためにも、もっと重視されてもよいと思います。軽度知的障害の中に学習障害を抱えた人たちが多数いて、自尊心を失い就労も続かず負の連鎖・貧困の連鎖を世代間で作っていく話は宮口先生の言われる通りだと思います。及川さんの時代は知的障害を数値だけで厳格に決めていたのだと思いますが、今はIQが少々高くても生活全般に支障をきたしているなら障害を認めるようになっています。また、知的障害で診断が出せない時でも医師が学習障害などの発達障害を診断すれば精神障害手帳が出せるようになっています。