みんなちがってみんないい
保育所等訪問支援事業ーその2
かなり前に保育所等訪問事業を当事業所で実施しているとアナウンスしました。先日も連携先の施設参観や懇談を行いました。保育所・小学校・中学校と大きくなればなるほど支援関係先が増え、お互いに情報をいきわたらせるだけでもかなりの労力を割きます。というか、同じ情報を共有していなければ連携などできないといっても過言ではありません。そして、大勢の方たちのスケジュールを合わせて会議設定をして支援の方向性を出していきます。会議というのは結構コストがかかる代物です。人件費×人数×時間ですから多ければ多いほどコストがかさみます。保護者のオーダーで訪問事業者には支出されますが、残りの部署の各自は全額持ち出しですから、受け手の善意で成立しているといってもいいでしょう。もちろん訪問を受けることで各部署にも専門的な知見や技術が提供されるメリットがあるというのがこの事業の建前です。
さて、保育所や施設の場合は直接介入して「こんなふうに工夫します」と構造化支援や視覚支援ツールを使ったりや感覚統合アプローチなどを実際の子どもにやらせて、スタッフに見てもらって理解を促すことができますが、大きくなるとなかなか他の現場に実際に介入することがむつかしくなっていきます。第一に、当事者の思いがあります。また周囲の子どもや職員の理解や感情にも配慮していくことになります。そういうわけで高校までの支援ではありますが、だんだんお互いの情報を共有してベターな支援策をお互いに見つけていく支援会議の比重が重くなっていきます。このシステムは福祉だけでなく教育分野で準備しているところが多いですが、地域によって格差があります。
もともと、保育所等訪問支援事業は年齢の小さな子や障害の重い人でも工夫によって通常の環境に適応させていくというインクルージョン志向から始まったものです。つまり、児童発達支援事業や放デイを推進することはエクスクルーシブ(障害者の囲い込み)じゃないのかという声にバランスをとった政策と言えなくもないのです。実際には子どもを預かっているところが発達支援のイニシアティブをとるのは当然です。従って支援に必要な経費もスタッフの専門性維持の何もかも相談支援事業者には執行の権限がないなかでどれくらいのパフォーマンスが実現するのかは、双方の相性や条件次第というところかもしれません。
ただこの事業のいいところは業種を超えて知恵を集めてチームで子どものために頑張ろうというところだと思います。当然家族も含めてです。
声のメータ表
不必要に大きい声で話したり、または逆に全く聞こえない声で話したりする子が少なくない当事業所では声のメータ表を掲示しています。
事業所100m前から来たな!とわかる声もあれば。1m隣でもこちらの耳の老化のせいもあり聞き取れない小さな音量もあります。
でも、視覚で確認できれば自分はどのくらいの声で話したら良いのかがわかるようです。イラストにしていまの声はこれくらいかなと示せるようにしてあります。
「0」が心の中
「1」が隣の人
「2」が4、5人のグループ
「3」が部屋全体
「4」が屋外
数字で表すととても具体的で子どもにも分かりやすいです。実はこの課題に取り組んでいる方は結構いて、「アリからライオンの声」までで表現したり「円の面積の大小」示したりいろんな工夫があります。筆者が困るのは声の大きさは丁度よくても、早口で声のトーンが上がってしまいキーキー声になる方がいるのです。これにはどんなレベルメータがいいか思案中です。
対人関係を調整することの難しさ
ASDの人たちに共通する特性の一つに対人関係を調整することの難しさがあります。特性の強さや現れ方は子どもによって違いがあり、ある特性が特に強い場合や、成長に従って特性が変化することもあります。
ASDの子どもは、他者との関わり方やコミュニケーションの取り方が変わっていることがあります。相手の気持ちや状況といったあいまいなことを理解するのが苦手で、字句どおりや状況に関係なく理屈だけで判断したり行動をとる傾向にあり、臨機応変な対人関係を築くことが難しく、誤解されたり相手を誤解したりすることが少なくありません。
表情や話しぶり、視線などから相手の気持ちをくみ取ることができにくいので「暗黙のルール」がわからず孤立しやすいです。受け身過ぎたり、一方的過ぎるなど、双方向の対人関係がうまくとれない人もいます。
表面的な会話だけでは問題はないのですが、場の空気を読めないなどの特徴のために周囲の人のひんしゅくを買ったりすることがあります。普通に話しているつもりなのに相手を不愉快にさせたり、怒らせてしまったりするので友達ができにくい人もいます。
この特性のために本人は「生きづらさ」を感じることもあります。一方で、「人の意見にぶれずに課題を遂行する」などの形で、特性がむしろその人の強みになることもあります。「高い記憶力」や「好きなことへのこだわり」といった特性を発揮して仕事や趣味で充実した生活を送っている方もたくさんいます。だから、その子がもって生まれた個性と理解して、「生きづらさ」を軽減しながら得意なことを伸ばす支援が大切です。
筆者がよく経験するのは、ASDの方が緊張をされている環境の中では対人理解に誤解がよく生じます。先生から、友達から、上司からひどいことを言われたというものです。また、誤解された相手は「そんなひどいことは言った覚えがない」と憤慨されます。相手方の言われた内容をよく聞いてみると、通常の関係なら善意の励ましや激励、正確な理解を促すための説明となるのですが、聞き言葉をうまく処理できにくい方や中心的な趣旨をつかみにくい方なら、誤解するかもしれないなと思うことはよくあります。
こんな時に言った言わないについて第3者が介入すると、水掛け論どころか火に油の場合もあります。言った言わないは保留して、あの環境下では誤解が生じやすかったのだという認識を双方が持つことが大事ではないかと思います。どちらも悪意はない。善意で話しあったけれども、双方の真意は届かなかった。届かなかったものは今届ければいい。今後はこういう解決方法を取ればいい。と未来志向で向かい合って話し合うことが必要です。第3者はどちらの肩も持たず、誤解があったこと、誤解ならば解く必要があること、次回はこうすればうまくいくという支援が大事だと思うのです。
慣れる?
うまくいかずに困っている子どもを見て、よく大人は「そのうち慣れるでしょう」と言います。慣れるとは、大辞林を引くと
①たびたび経験した結果、当たり前のこととして受けとめるようになる。なれっこになる。
② 何度も経験してうまくできるようになる。習熟する。
③ 接触する機会が多く、心理的な隔たり・距離感がなくなる。
④ 体になじんで具合がよくなる。
⑤ 動詞の連用形や名詞の下に付いて、何度も経験して具合がよくなる意を表す。
⑥ なじんで打ち解ける。
⑦ 着物が着古されてよれよれになる。
つまり時間が解決するということでしょうか。けれども時間をかければなんでも慣れるでしょうか。嫌なことが毎日毎日繰り返されたり、意味のわからないことが繰り返されたりすることに人は慣れるでしょうか。
仮に今努力が必要だとしても、将来の見通しがあれば頑張れます。でも慣れるというのは努力した結果とは少しニュアンスが違いませんか。慣れるというのは、自然にだんだんと適応していく意味合いが強い言葉です。でも、自然にと言うのはいずれ誰が説明しなくてもわかるとか、いずれ普通にできると言う意味合いで。いつまでたってもかなりの努力を必要とし、持てるパワーの半分以上を消費してしまう様子ならそれは普通の状態では無いです。
ここらを混同して使う大人が結構います。意味がわからなくて混乱状態の子どもを前にして慣れるだろうと根拠ないことを言ったり、かなりの努力をしていつバッテリー切れを起こすかわからない状態なのに、できているから「慣れてきただろう」と言うのです。要するに子どもの内面が見えていないのに、「慣れた」という言葉を使って子どもの内面に関する思考を停止してしまうのです。
子どもは子どもで、みんなは自分よりはるかに努力をしているからできるんだ、自分はダメな人間だと思ってしまうのです。他の子は自然にできていくだけなのです。すなわち慣れたのです。その子にとって特別な努力をしないとできないようなことに慣れるという言葉は使ってはいけないですね。
宿題と学習時間
筆者が小学校の頃は先生によって宿題の量はまちまちだったみたいです。「みたいです」というのは、最後まで宿題をやったためしがないのでおそらくそうではなかったかという話です。今はほぼマニュアル化されていて先生によって大きく違うことはないようです。文科省が出している宿題の目安として(引用資料探せませんでした)、「学年×10分」です。1年生なら10分、6年生で60分です。はっきり言って短いです。でも、平均より学力の低い子を目安にこの程度と言われています。小学生段階だと、家庭学習の「習慣」を身につける練習にはこれくらいということでしょうか。
ただ、学力は量だけで決まるものではなく質だと言われる向きもあります。平均的高学年の子どもが学習を持続できる時間は50分程度といいます。そのうち完ぺきに集中できる時間は平均15分程度らしいです。だとすると、集中できる15分間に何の学習をもってきて、それ以外の時間にはどんな学習を持ってくるのか考えておく必要があります。漫然とドリル学習をさせるだけではもったいないということです。
ここまで読んでお気づきの方もいると思います。同じ子どもが向かっている学習時間ですら時間帯によって質が違うとすれば、違う子どもならさらに違いが生じるはずだということです。子どもの特性をよくつかんで宿題を開始する時間、内容の順番、今の宿題の学習量や質が子どもに適しているかどうかは家庭で組み立てたり見てあげるしかありません。小学校の宿題は子どもが大きくなって家庭で自学自習の習慣とその自信を子どもにつけるために行うものだということです。
アセスメント
当事業所が発達検査を実施しているのは「読み書き障害」のところで掲載したところです。当事業所が実施しているのはKABC2という最新の理論に基づいた検査です。この検査は子どもの認知力と学力の両方を見る検査です。WISC4などほかの検査は認知力しか見られないので実際の読み書き計算の力がはかれません。ただ、認知と学力の両方を検査するので2回に分けないと子どもが疲れてしまうという課題はあります。
アセスメントは、医師がおなかが痛いのに頭痛薬を出さないように、療育者もどこが課題か把握してから療育を進めた方が最短距離で結果に到達できるからです。もちろん検査なんかしなくても、長年の勘で子どもの課題を見つけて支援を考える方もおられますが、今はチームで支援するのがあたりまえですので、誰もが根拠に納得をして支援を進める必要があります。誰もがというのは支援を受ける本人も家族もさしています。
検査はするけど、検査結果を口頭でしか報告しないとか、報告すらしないという検査者がいるそうです。こういう方は、病院で検査をして結果表を病院が見せてくれなくても、医師が数値をもとに診断しなくても大丈夫なんでしょうか。みなさん「数値が独り歩きする」と言って「親が数値だけで子どもを見てしまう」と報告されないのですが、それならあらゆる統計値で構成された天気予報も保険料も認めないのでしょうか。天気予報が外れたと訴える人はいないでしょうし、保険の生存率や事故率を認めない人もいません。統計値を確率として了解しているからです。
とういうことで検査根拠に基づいた支援をしてほしいとご希望される方はスタッフまでお知らせください。
みんなでお出かけしたい。福祉車両が欲しい
当事業所は職員の自家用車を事業対応車として保険に入り送迎の運用をしています。自宅の送り迎えはそれでいいのですが、みんなでお出かけするときは小さな車だと分乗となり車内指導がむつかしかったり運転手が余計に要ったりで効率が悪いのです。10人乗り車なら子どもを一気に乗車させてみんなで移動できます。車内指導も容易です。
さらに、福祉車両なら車いすも乗ったままでそのままリフトやスロープ・ウィンチで乗車できるのでみんなでお出かけできます。また、車いすの方の乗降介助は窮屈な姿勢で介助されるので、精神的にも肉体的にも当事者が一番負担なのです。
でも福祉車両は例えばワゴン車なら400万近くしますし軽自動車でも150万を突破します。これを2台買うとかなり厳しいなと唸っています。そこで、あちこちの助成団体を見て申し込もうと思っています。だいたい価格の6割程度は助成してくれるそうです。しかし、車屋さんに聞くと当選の確率はこの地域では1~2割だそうです。でも申し込まなければ何も始まらないので書類の山と格闘することにします。がんばります。
西陣麦酒プロジェクト
昔、作業所で作ったアクセサリーを買ってほしいと会合で現物が回ってきたことがありました。皆さんは好意的に購入されていましたが、現物は販売品質のレベルには達していませんでした。材料費だけでも回収したいというスタッフの気持ちはわかるのですが、それなら正直にカンパをお願いしたらどうかと思ったことがあります。これは作業所の利用者のスキルの問題ではありません。経営者や職員がこの商品から製作に関わった利用者がどのように購買者にイメージされるか想定できたかどうかの問題だと思うのです。
前回(4/20)掲載した「西陣ビール」の続報が京都新聞6/11に掲載されました。「おいしい」「かわいい」「背景ストーリに共感」と言われ他の地ビールより割高でも取引されているそうです。商品は欲しいと思われてなんぼだと思うのです。おいしい!かわいい!がバズり(流行り)、そのことで製作にかかわった人たちが身近に感じられるように、経営戦略を立てることは会社だけでなく福祉の事業所にも求められていることだと思いました。
家事労働
子どもたちにお家で何のお手伝いしてると聞くと、たいがい「ふろそうじ」とか「食器下げ」です。昔は新聞取りとか牛乳取りとかあったのですが時代の変化で廃れたようです。
子どもは、お手伝いから多くのことを学び成長します。でも、お手伝いをやらせればいいというわけではないし親がどのように対応するのかが重要です。子どもは基本お手伝いをするのが好きです。子どもがお手伝いしたいと思う気持ちは、子どもが心身ともに成長しているからです。自分の力を試してみたいという意欲の表れでもあります。
自分からやりたいと言わない子どももやりたいと思っているかもしれません。「これをするの、一緒に手伝ってくれる?」と、声をかけてみましょう。一度にたくさんのお手伝いを頼まないように気をつけてください。お手伝いが嫌いになります。子どもによって、また、内容によって、子どもだけに任せる場合や、お母さんやお父さんと楽しんで一緒にやることもあると思います。
お手伝いは基本ほめましょう。子どもはお手伝いしたことをほめられると、また頑張りたくなります。失敗しても決して叱ってはいけません。少々のことには目をつぶり、大目に見て、やってくれている気持ちを尊重しましょう。たとえば浴槽洗いで子どもの洗い方が不十分な場合でも、その場で注意し、スポンジを奪い、親が子どもの目の前で洗い直すということは決してしないでください。子どもの自尊心を傷つけます。まずは感謝の気持ちを述べ、洗い直したければ、あとで子どもに気づかれないようにこっそりすればいいのです。次の機会に、親子で一緒に洗いながら「この角っこのところ、とくに注意して洗おうね。ヌルヌルが残っていないか、指でキュッキュッと、確かめてみるといいよ、そうそう上手上手」と教えてあげましょう。
子どもは、お手伝いしたことを感謝されることにより、人の役に立ててうれしい気持ちを実感し、また、最後までやり終えた達成感から、自分に自信を持つようになります。そして自分の判断で行動できる子どもになります。子どもはお手伝いからたくさんのことを学びます。どうやったら早くできるのか、どうやったらうまくいくのかを考え、工夫します。家族の一員として何か役割を与えられると責任感が芽生えます。
お手伝いは、子どもに任せるお手伝いもありますが、親がやっていることを一緒に手伝ってもらう場合もあります。親と同じことをすることで一体感が生まれ、いつもは話さないことも語ってくれるものです。子どもの方からあまり語らない場合は、親の方から子どもの頃の話など色々と話すと、子どもは共感し、心を開き自然と語るようになります。お手伝いをさせないで育ててきた子どもに、大きくなってから急に手伝わせようと思っても難しい話です。幼稚園や小学校など小さな頃からお手伝いの習慣をつけると自然に仕事が好きな子どもに育っていきます。
花粉症
昨日、すてっぷに来てから鼻水がずるずる出てくしゃみ連発なのでこりゃなんかのアレルギーだと思っていたのですが今日は何ともないのです。周囲を見回してみるとヒノキがありました。隣の庭のヒノキの花粉が風で飛んできて1本だけなので全部飛び散ったのかしらと推測しています。この時期はブタクサというイネ科の花粉とヒノキ花粉のアレルギーが多いといいます。
花粉アレルギーでアナフラキシーショック(アレルギー反応によって急速に、皮膚、呼吸器、消化器など複数の臓器と全身性の症状で生命にかかわるような状態)になる人もいるのでアレルギーといえども侮れません。最近はDNAレベルで治療するDNAワクチンが治療用にならないかと研究が進められています。
アレルギーには花粉だけでなく食物やペットの毛、化学物質、ホコリ、金属と挙げればきりがないです。なぜこんなにアレルギーが増えてきたのかは、ざっくりいうと人間の文明が進化したためです。古来人体が防護してきた微生物や細菌の防御機能が、清潔環境では感染がおこらず他のもので反応するようになるからだ(1989年イギリスStrachan博士)と言われます。
同じようなことはいろんなことで言えそうです。社会性の発達についても失敗がない子は後でしんどい目に合うと言われるようにです。ただ、だからと言って重篤な感染症にかかるのは予防する必要がありますし、病弱者なら些細な感染症でも防ぐ必要があります。同じように、重大な失敗体験が予測できるなら予防する必要があるし、子どもの特性によっては些細な失敗も重大なトラウマになってしまうこともあります。
要は一人一人の子どもの的確な見立て(どの程度の失敗なら大丈夫か)と、明確な支援策(失敗のリカバリー方法)を大人が持っているかどうかにかかわっています。これって、最近のアレルギー治療、つまり的確なアレルゲン特定と減感作療法(徐々に慣らす治療)によく似ています。