すてっぷ・じゃんぷ日記

2019年9月の記事一覧

山路を登りながら

今日は暑くもなく曇り空で、過ごしやすい朝でした。よし、西山に登ろう!ということで、みんなで出かけました。涼しくなると藪蚊が出血大サービスで出てくるので、しっかりスプレーをして登りました。

山路を駆け上がる風は、肌に気持ち良く、癒されます。しばらく上がると、うっすらかいた汗が蒸発する心地よさに、遠い学習記憶がよみがえりました。

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山路を登りながら、こう考えた。

智に働けば角が立つ。
情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
とかくに人の世は住みにくい。

住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。
どこへ越しても住みにくいと悟った時、
詩が生れて、画が出来る。

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理知だけで割り切っていると他人と衝突するし、
個人的な感情を優先させれば、足元をすくわれてしまう。
意地を通そうとするとがんじがらめになってしまう。
何にせよ世間は生きづらい。

住みにくい世の中から抜け出そうと、ここではないどこかに住みやすい、違う世界を求めようとする。
でも、次々に引っ越しを繰り返すそのたびに、「生きづらさ」を痛感する。そして、ああ、どこへ行っても一緒なのだ、と悟ったときに詩が生まれて、絵画が出来るのだ。

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と、なぜか漱石の草枕の冒頭が風に乗って覚醒したのでした。

 

固有覚要求

爪や服をかむ、物を口に入れる、ほつれた衣服を口で破るなどの人は口や顎の固有感覚を必要としているかもしれません。固有覚は覚醒を上げたり、情緒を安定させる働きがある感覚です。噛んでもよい物(キーチェーンのコイルなど)を準備し、首から下げるなどいつでも使えるようにしてあげると服噛みが少なくなる場合が多いです。また、固有覚要求の強い人には、作業課題でぐっと力を込めることが必要な「空き缶潰し」や「ペットボトル潰し」に当事業所では取り組んでもらっています。リュックサックにみんなの飲料水をたくさん入れて担いで登山するのもスッキリするみたいです。

 

運動会練習

最近利用者の皆さんがお疲れ気味なのです。おそらく体育祭練習疲れではないかと思います。最近は少しマシとはいえ炎天下の集団行動、集団演技の内容はたいがい調整力やリーディングマインドを必要とする種目が多く、個人競技はプロセスよりも結果の優劣が気になるASDの人にはイライラのもとになります。走るのが遅い方も多いですから、「明日は地獄の運動会」なのです。嘉門達也が運動会BGMの「天国と地獄」の替え歌で唄っています。ほんとに、運動会はつらい人にはつらいのです。

地獄の運動会
嘉門 達夫
収録アルバム: “青春”のさくら咲く~スクールセレクション~
2011/3/23

明日は地獄の運動会雨降れ風よ吹け
明日は地獄の運動会 地球が滅亡すればいい
どーせオレは毎年 5等か6等さ
笑いモノになるため走るようなもの
せっかく今日まで築いた地位が一気に崩れる
明日だけは風邪でもひいて休みたい
あの娘の見ている前でわざわざ恥をかくなんて誰が考えたクソ運動会
肩身が狭いよ オレの居場所ナイ 悪夢のような一日だよ
足が速けりゃ そいつがエラいなんておかしい
普段の成績なんて この日だけ関係ない

明日は地獄の運動会 雨降れ ヤリよ降れ
明日は地獄の運動会 テルテルボーズを逆さに吊るそ
ところが どっこい 朝目が覚めたらメチャイイ天気
ユウウツ ユウウツ 重い足どりで学校へ

・・・・・・・・・。

 

 

 

ぼんさんがへをこいた?

今日は秋晴れ。近くの向陽高校の体育祭のアナウンスが秋空に突き抜けていきます。みんなで川原公園で遊びました。昔、何もないときに遊ぶのは警泥とか缶蹴り(京都では「けった」という民主的な遊びに変質)です。しかし、いずれも脚力がものをいうので、異年齢で遊ぶときの定番は「ぼんさんがへをこいた」です。鬼が目を閉じ10数えて振り向いたとき動いているのを見つけられたらアウトです。10数えるのに文字を10文字読めばいいというのが全国共通ルールです。

これも京都では関東風に「だるまさんがころんだ」と数え台詞のギャグ精神が骨抜きにされて伝承されています。「普段すましてはるお坊さんでも、おならはするやんか」というニンゲンの裏表描写が関西では笑いのツボでおもろいのです。「転ぶわけないダルマが転ぶんだよね。なんちゃって」などという、のり突っ込みは、関西人には面白くもなんともありません。笑いの意味が分からないです。屁のツッパリにもならないです。ということで「すてっぷ」では、正々堂々と「ぼんさんがへをこいた」でいきます。中国地方から九州方面では「インド人の×××××」という、すぐさまポリコレ運動に引っ掛かりそうな数え台詞もありましたが今はどうなったのでしょうか。

懇談会

福祉事業所ではおおよそ半年に一回は支援計画の振り返りと新たな計画の作成を行い、利用者やその保護者の方と懇談を持ちます。この流れは教育界にも影響を与え、個別の指導計画や教育支援計画があります。これは、福祉が明けても暮れても同じような目標を何年もかかげ続けて、その支援について根拠が感じられないという利用者関係者の声を受けて、また「私たちの事を私たち抜きで決めないで(Nothing About us without us)」という障害者の権利運動も背景にして、始まったものです。そして、低劣な支援を続ける事業所は淘汰されるべきだとして、契約の段階で利用者と事業所が対等に話をして、現実的な支援策について話をするためのツールとして支援計画は生まれたのです。しかし、それでも事業所の立場の方が強いのは変わりないです。事業所の数が過当競争にならないように事業所数がコントロールされているので、利用者の事業所選択の余地がほとんどないからです。

確かに資本力が大きければ質の高い実践の可能性は高まります。しかし、それだけでは支援の質は高められません。どんなに資本力のない事業所でも、科学的な根拠に基づいた支援の質は時間をかければ利用者とその関係者に伝わっていきます。この9月は懇談会が続きます。当事業所の支援をぜひご理解いただき、新規または、更新された支援計画に、ご契約をいただきたいと思います。