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校則

中学校則「下着は白」、教員が目視で確認…弁護士会「明らかな人権侵害」

2020/11/13 09:07【読売新聞】

下着は白、マフラー禁止、髪形のツーブロック禁止――。中学校の校則の見直しに向け、佐賀県弁護士会(富永洋一会長)が、判断基準などを示した提言書をまとめた。13日に県教委に提出し、県内各市町教委や県PTA連合会にも送る。(森陸)

提言は3項目。「規制の目的と手段(指導)が合理的なものか」との基準を示したほか、「子どもの権利を明言すること」や「策定・改定の際に子どもが関与できる仕組み作り」からなる。

提言書は、県弁護士会憲法委員会(東島浩幸委員長)が中心となって作成した。今年4~10月、情報公開請求で収集した中学校22校(県立4校、佐賀市立18校)の校則を精査。また、中学生男女4人、生徒指導担当教諭2人にヒアリング調査を行うなどした。

中学生へのヒアリングでは、定期検査の際に教員が下着を目視で確認する指導が現在も行われていることが判明したという。同委員会の稲村蓉子弁護士は「明らかな人権侵害だ」と指摘。

また、多くの学校で、制服や髪形が、男女別に細かく定められていることについて、「性的少数者(LGBT)や障害者、異なる文化や宗教を背景に持つ子どもたちを社会がいかに受け入れ、多様性を確保するのかという視点が欠落している。子どもたちが納得できない、学校側が理屈を説明できない校則は改定を検討すべきだ」とした。

東島委員長は、子どもの基本的人権を保障した「子どもの権利条約」を日本も批准していることに触れた上で、「学校、子ども、保護者の3者が自主的な議論を通じて、高校や小学校も含め、よりよい校則のあり方を考えるきっかけにしてほしい」と話している。

校則については、山口知事や落合裕二県教育長、民間の教育関係者らが出席した昨年11月の県総合教育会議でも議題に。「誰のための校則なのか」「校則に抑圧され、支配されるのではなく、自分で考えて動ける校則を作るべきだ」などと、疑問の声が相次いだ。県教委が今年3月、校則見直しを呼びかける通知を出したのを受け、県立中4校は今年度、見直しを予定していると回答した。

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校則問題は平成の時代にトンデモ校則が告発される中で、ある程度淘汰されたと思っていましたが、まだまだあるようです。「服装の乱れは心の乱れ」と信じている大人がまだいる一方で、最近の子どもたちは普通に制服を着る子がメジャーになってきています。崩して着るのがダサいそうです。

これと併せて相乗効果となっている有力な理由は、高校の場合は私学入試だそうです。学校推薦型+総合型の入試入学者の比率が高まっている中、関東圏内だけでも慶応を除き早稲田、学習院、立教、青学、上智と入学者の4割を占めるようになっていることです。もちろんこれに伴い私立高校も同じような選抜傾向になり中学生に与える影響も大きいと思われます。つまり半数近くが学校推薦が必要な入試になってきたということだそうです。

ただ、こんな議論をしているわが国は平和だなとも思います。香港では先の民主化デモに参加した中高生が、いつ中国共産党に因縁をつけられるかと毎日おびえて暮らしていると言います。着衣の着こなしは、相手に不快感や威圧感を与えない意味で大人が教える必要があります。教えるという事と強制することは対極にあります。これも大人が教えるべきことです。

 

ハッピーの魔法

芸歴20年のお笑いマジシャンは公務員 特別支援学校に「ハッピーの魔法」

2020年11月15日 10時00分【毎日新聞】


社会福祉士の資格を持つ兵庫県尼崎市職員で、芸歴20年の技を仕事に生かすお笑いマジシャンがいる。関西で10年間続いたお笑いバトル大会で2012年、ゆりやんレトリィバァさんを抑えて優勝したハッピー浅田(本名・浅田智一)さん(44)=大阪府茨木市。この秋、新型コロナウイルスの影響で修学旅行が中止された尼崎市内の特別支援学校の代替イベントに登場し、笑いの渦を巻き起こした。マジックを伝えるのが難しい視覚障害のある生徒らも含め、どんな“魔法”でハッピーにしたのか。その技と工夫、思いを明かす。

同校は例年、大阪市内で1泊の修学旅行をしていたが、今年は新型コロナ禍で中止に。思い出作りにと教員らが企画した校内での「修学旅行」に招かれ、初めての訪問だった。生徒は重度の肢体不自由や知的障害、視覚障害があり、マジックを楽しんでもらうには工夫が必要だ。浅田さんは会ったばかりの生徒たちの障害の程度や反応に合わせて演目を決め、臨機応変に道具や構成を変更した。

リンゴを手のひらに落とすマジックでは手が不自由な生徒に紙袋を持たせた。視覚障害の生徒にも分かるようマジックで変化した様子はできるだけ言葉で説明する。触覚でも楽しめるよう、増えるスポンジボールを生徒の手に握らせるなど、ひとりひとりが参加できる工夫を凝らした。

生徒会長の阪本唯斗さん(18)は、トンカチで打った指が大きくなるシーンで大ウケ。母弘子さん(41)は「変化が分かりやすかったので、よく理解できて笑っていた。楽しい思い出ができて本当に良かった」と喜んだ。浅田さんは「視覚障害の子の前でやるのは初めて。どう楽しんでもらうかを悩んだけれど、今回経験できたのでもう大丈夫」と笑う。

浅田さんのもう一つの顔は、障害者らを支援する福祉の専門職だ。尼崎市役所入庁22年目のベテラン職員で、今は尼崎市子どもの育ち支援センター「いくしあ」で、児童ケースワーカーの指導役を務める。

マジックを始めたのは入庁2年目の2000年。引きこもっていた20代男性の自宅を訪れ、母親から相談を受けたことがきっかけだ。男性が面白いことが好きだと聞き、懇親会の2次会用にたまたま持っていたマジック道具で花を出してみせた。喜んだ母親は男性を呼び、「面白い人やで」と浅田さんを紹介。部屋から出てきた男性と関係を築いて、病院を受診してもらうことができた。

その体験から少しずつマジック道具をそろえ、精神疾患を持つ人のグループ活動で披露したり、口コミで民間の作業所や祭りに呼ばれたりするようになった。17年には公務員芸人の仲間と社会人演芸サークル「公共の利益」を結成、自主公演も開いている。いずれも報酬なしのボランティアだ。

浅田さんの芸は、マジックを披露しながらとぼけた話術を繰り広げるスタイル。「どんな立場の人も楽しませられる」と語る。普段の仕事では相談を受けて指導や支援をすることが多く、どうしても「上」の立場で話すことになりがちと感じる。だが、芸を披露する時の相手は誰もが「お客様」。「相手の気持ちを考え、ハプニングにもアドリブで対応することが、相談者との関係作りや支援の仕事に役立った」と振り返る。

05年から「ハッピー浅田」として数々のお笑い芸人の賞レースに参戦してきた。中でも12年のお笑いバトル「ボルケーノ茨木」で、その後に人気芸人となる、ゆりやんレトリィバァさんを抑えて優勝したことは一番の自慢だ。

芸人活動は職場でも役立ち、16~19年には毎年、自前の衣装と小道具で「けんけつ係長」に変身。市役所に献血バスが来る日、「職員が50人献血に来なかったら辞める」と宣言して市庁舎1階でPRし続けた。達成できなかった時には「係長」を一旦引退し、髪の色が緑に変わってパワーアップした「スーパーけんけつ係長」として復活した。

公務員としてふざけていると言われることはないのか?記者が尋ねると、「誰かに怒られたことは一度もない」と浅田さんは即答した。「言われないだけの仕事を普段している」と胸を張る。

「審査員を笑わせるより、お客さんとやり取りしながら笑わせたい」。今後しばらくは賞レースから離れ、声をかけられたイベントに注力していくつもりだ。特別支援学校でのステージで新たな方向性も見え始めた。「僕の集大成ともいえる仕事となった。全国の特別支援学校に呼んでもらえたらハッピーですね」。お笑いで人々に奉仕していくのは、公務員としての心意気とも重なっている。【稲田佳代】

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笑いは、前に進む力を与えてくれます。小難しいことをいくら並べても気持ちは前に出ませんが、笑いは「ほなやってみてみよか」という自然な感情を引き出します。お笑いは時として安価で根拠のないテレビ制作にも使われ批判されますが、優れたお笑い番組として思いつくのがNHKのバリバラです。

バリバラは、「日本初の障害者のためのバラエティ番組」と銘打ち、障害者自身が(時には自らの障害をネタにして)笑わせることを目指した番組で「バリアフリーバラエティ」の略称です。報道機関やマスメディアでの障害者の描かれ方が、『一生懸命頑張っている障害者の部分を一面に強調しすぎて画一的である』という「障害を抱えている視聴者からの苦情」を、テーマとして取り上げたことがきっかけに作られた番組です。

この企画を立ち上げるに当たり、障害(者)を笑うのではなく、障害者と一緒に笑いあいながら、バリアフリーを考える番組を目指したとプロデューサーは言います。障害者をメインに据えたバラエティ番組の制作については「障害者を見せ物にしている」などの批判もありましたが、9割近くを好意的な意見が占めたそうです。笑いはポジティブな関係性を作り出すという事だと思います。お笑いネタは子どもたちも大好きです。

 

 

30人学級

少人数学級、文科省vs財務省再び30年動かぬ“山”は動くのか

2020年11月17日 08時00分【毎日新聞】

「コロナ禍」を機に少人数学級の導入論が熱を帯びている。現行の定員は小1が35人、小2以上は40人。文部科学省は与野党や地方の声を背に、2021年度の予算編成でこの引き下げに必要な経費を要求した。ただ、バブル期から約30年間、義務教育の学級基準の一律引き下げは実現しておらず、省内では「一筋縄ではいかない」との声も聞かれる。この間、少人数学級を阻んできたものは何なのか。そして、今度こそ山は動くのか。【大久保昂/東京社会部】

「まだ5合目」慎重な文科省幹部
「ここまでは順調に来た。ただ、今後は巻き返しの動きが出てくるだろう」
21年度予算の概算要求を控えた9月上旬。取材に応じた文科省幹部は、言葉を選びながら話した。

この頃、文科省の長年の悲願である少人数学級には、追い風が吹いていた。新型コロナウイルスの感染拡大によって長期休校を余儀なくされた反省から、身体的距離を確保するために学級基準の引き下げが必要だとの声が高まっていた。
6月末に公明党幹部が安倍晋三首相(当時)の元を訪れ、30人学級の導入を提案した。それから3日後には、全国知事会、全国市長会、全国町村会の地方3団体の代表者が萩生田光一文科相と面会し、やはり少人数学級の必要性を訴えた。

この流れに乗って、政府が7月17日に閣議決定した経済財政運営の指針「骨太の方針」に「少人数によるきめ細かな指導体制の計画的な整備」が盛り込まれた。9月8日には、政府の教育再生実行会議のワーキンググループが、来年度の予算編成において、関係省庁で少人数学級の導入を検討するよう促している。

与野党、自治体、政府の有識者会議の方向性は一致していた。
だが――。これだけ条件がそろっても文科省幹部は慎重だった。「登山で言うとまだ5合目くらい」何しろ約30年間、文科省は何度も導入の必要性を訴えながら、なかなか前に進まなかった政策なのだ。

50人→45人→40人バブル崩壊で停滞
戦後、これほど長期にわたって学級基準の引き下げが停滞した時期はない。歴史を振り返ってみよう。日本は敗戦後、当時のアメリカの教育制度をモデルとして「6・3・3・4制」を採用。小中学校の1学級当たりの児童生徒数の上限は、学校教育法の施行規則で「50人」と定められた。

ただ、規則には50人を超える学級編成を認める例外規定もあり、財政状態の厳しい自治体ではこうした状態が放置された。そこで政府は1958年度、義務教育標準法を制定し、50人学級を法制化するとともに、必要な教員の人件費を国が措置することにしたのだ。

旧文部省はこれで満足しなかった。「教職員定数改善計画」を策定して計画的に教育環境の改善を進めた。これまで7次にわたる計画の中で、普通学級の規模を一律に引き下げたのは2回ある。

64年度から5年かけて「45人」学級を実現した第2次計画と、80年度から12年かけて現行の「40人」学級を完成させた第5次計画だ。ベビーブーム世代の卒業で生まれた余剰教員を活用し、段階的に進めていった点が共通している。ところが、バブル崩壊で日本経済が失速すると、軌を一にするように学級規模の引き下げの議論も停滞していく。

「平成」になってから策定された第6次計画(93~00年度)と第7次計画(01~05年度)は、複数の教員で指導をする「チームティーチング」や習熟度別授業のための教員配置に主眼が置かれた。大幅な教員増が必要となる少人数学級ではなく、狙いを持った追加配置(加配)によって教育環境を改善する道を選んだのだ。

第7次計画が終了すると、定数改善計画そのものが作られなくなった。文科省は05年度に第8次計画の案を練り上げたが、財政構造改革を掲げる当時の小泉純一郎政権に退けられた。文科省が巻き返しを図ったのは、09年に自民党から旧民主党へ政権交代が起きたタイミングだった。日本教職員組合の後押しを受ける民主党政権は、少人数学級の導入に前向きだった。文科省はすぐに具体的な制度設計に着手し、政権交代から約1年後の10年8月、久しぶりに定数改善計画案を公表する。

それは、11年度から8年かけて小1、小2で30人学級、小3以上で35人学級を導入する内容だった。ところが、この案も政府内では採用されなかった。11年度から小1の35人学級が法制化され、翌12年度には小2も財政措置によって事実上の35人学級が実現したが、進展はここまで。旧民主党政権の瓦解(がかい)もあって、その後は足踏み状態だ。

最大の壁は「お隣さん」
「お隣の役所が首を縦に振ってくれるかどうか……」「財務省さんは一筋縄ではいきませんよ」――。文科省で少人数学級の議論を取材する際、官僚からこうした説明をよく受ける。財務省とは道一つ挟んで向かい合う。この「最強官庁」こそが、最大の壁だというわけだ。

文科省の事務方トップである藤原誠事務次官は初等中等教育局長だった17年3月、定数改善計画が策定されなくなった経緯を国会で追及され、率直に答弁した。

「文部科学省としましては、数次にわたりまして計画的な定数改善を要求してまいりましたが、残念ながら財務省の厚い壁があり、長期的な定数改善計画は策定するに至らなかったという経緯がございます」

旧大蔵省時代から財務省は教員の大幅な増員には厳しい姿勢を示してきた。
「教職員の配置については、今後子供の数が減っていくことを考えると、これ以上の改善を行う必要があるかどうか疑問が出されています」

バブル崩壊後の財政収支の悪化を背景に、96年に財政制度審議会(蔵相の諮問機関)の財政構造改革特別部会と旧大蔵省主計局の合作として刊行された「財政構造改革白書」(東洋経済新報社)にはこう記されている。

旧民主党政権の誕生以降、文科省が中3までの少人数学級の実現を目指した際も、財務省は「学力向上などの効果が明確ではない」と一貫して慎重な姿勢を取り続けた。14年には、幼児教育無償化の財源を捻出するため、小1を35人から40人学級に戻すべきだと主張して物議を醸した。

平成、「援軍」が消えた
45人学級や40人学級が実現した時代も、旧大蔵省の力は強かったはずだ。「平成」の時代に少人数学級が進まなかった理由は他にもあるのではないか。この疑問を専門家にぶつけると、こんな答えが返ってきた。

「90年代以降に財政赤字が急速に拡大したことで、大蔵省、財務省の危機感が過去とは比べものにならないほど強かったというのが一つ。それと、文科省を取り巻くさまざまな環境の変化もあるでしょう」

こう語るのは、教育財政学を専門とする奈良教育大の井深雄二名誉教授。今年2月、財政の観点から戦後の日本の教育制度の変遷を追った「現代日本教育費政策史」(勁草書房)を刊行した。

井深氏によると、45人学級や40人学級が実現した際、旧文部省には総務省の前身である旧自治省や国会の与野党といった「援軍」がいた。対立関係にあった日教組とも、少人数学級の推進という点では考え方が一致していた。

ところが、90年代以降はこうした勢力図は塗り替えられた。総務省は地方分権改革において財務省と共同歩調を取るようになり、衆院選で小選挙区制が導入された後は族議員などの政治の力は弱まった。日教組の影響力も低下した。

「最も力を持った役所である財務省に対し、文科省が独力で要求を通すのは難しい。少人数学級をやりたくても、なかなか機会がなかったのが実情でしょう」

巻き返しに文科相も応戦
冒頭の文科省幹部が予想した通り、21年度の予算編成では、財務省の巻き返しが始まっている。

10月26日の財政制度等審議会(財務相の諮問機関)の作業部会。財務省は少人数学級の導入論をけん制する資料を提出した。

「平成以降、児童生徒数の減少ほど教職員定数は減少していない」「日本は諸外国に比べ学級規模が大きいとの指摘があるが、担任外教員が多く、教員1人当たりの児童生徒数は主要先進国並み」……。

文科省はすかさず、翌27日、反論をホームページに掲載する。
「教職員定数が減少していないのは、特別支援学校・特別支援学級に通う児童生徒数の増加によるものが大きい」「担任外教員は特別な支援が必要な児童生徒への対応や専科指導に充てられており、引き続きこうしたニーズに対応する教職員の配置が必要」……。

両者の見解は真っ向から対立している。ただ、こうした応酬は数年前から繰り返されてきた。

私は文科省が反論を掲載した日の閣議後記者会見で、萩生田文科相に挑発的な質問をした。「議論が平行線になった時は財布を握っている人が強いというのが、ずっと続いてきた。学級の小規模化を実現するには力が必要だと思うが、どのように実現しようと考えているのか」と。過去と同じ議論を繰り返していては、財務省が押し切る可能性が高いと感じたからだ。

萩生田氏は少人数学級の必要性についてひとしきり述べた後、こう言った。
「財布を持っている方が強いっていうのは、世の中的にはそうかもしれませんけど、それに負けないために文科大臣になったつもりでおりますんで、しっかり戦ってまいりたい」

最後は文教族の実力者である萩生田氏と財務省の力比べなのか。萩生田氏は今月13日、「30人学級を目指すべきだと考えている」とさらに踏み込んだ。決着は12月下旬の来年度予算案の閣議決定の直前までもつれそうな情勢だ。水面下で続く激しいつばぜり合いから目が離せない。

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30人学級とは、児童が30人を超えれば2学級になるということです。現在は最低が20人クラスですが15人クラスが登場するわけで平均22~23人を意味します。これは学校の規模も小さくする方向に向かいます。

日本では、公立小中学校の標準規模は12~18学級、1学級の児童・生徒数の標準は現在40人(小学校1年生は35人)と定められています。いま進められている学校統廃合は、多くの場合、学校の「標準規模」(12~18学級/校)を目標に計画されていますから、1つの学校の児童・生徒数が480人~720人というような世界に例を見ない大規模校をめざしていることになるのです。

財務省の「学校規模の最適化に関する調査(2007年7月)」によれば、1校12~18学級の中学校が2倍以上に、小学校は1.3倍に増えています。19学級以上の小学校も数は多くありませんが3倍(2校→6校)に増えています。

財務省は、こうした結果、「小中合計で約170億円の効率化」ができたと「成果」を強調し、今後、地方自治体や国をあげて学校統廃合を促進させる方向を提起しています。学校規模を小さくする世界の流れに逆行し、学校経費の効率化のため学校規模を維持もしくは大きくしようというのが、いまの日本での学校統廃合の動きなのです。人が多いほうが競争の励みになる等という古臭い競争原理まで持ち込んで統廃合を後押しする動きすらあります。

諸外国で学校規模が小さいのは、それだけ教育効果が高いからです。「小さな学校」「小さなクラス」ほど、学習意欲や態度が積極的になり、子どもたちの人格形成・人間的成長にとっても効果的であることが実証されています。学校・学級の規模と教育効果の関係についての研究報告としては、学校の規模が小さいほど教育効果が高まることを実証した「コールマン報告」(1966年)学級の規模が小さいほど教育効果が高まることを実証した「グラス・スミス曲線」(1982年)などがあります。また、WHO(世界保健機関)は生徒100人を上回らない学校規模を勧告しています。

これからの時代、単なる知識の詰め込みだけの受身の教育では役に立ちません。知識を応用し、いろいろな課題解決に取り組む力、集団の中で自らの能力を主体的・積極的に発揮する力が求められます。そうした力を培うには、いきなり大集団ではなく、みんなにチャンスが回ってくる小さな学校の方が有利です。教育効果があがる要因は、学校や学級規模だけではなく、学校の権限や教員の力量など様々なものが関係してきますが、日本では児童数の少ない北陸や東北の教育、世界では北欧の教育が成果を上げていることからも、小さいだけが全てではないが比較的有利らしいというのは納得できそうです。

※ OECD「図表で見る教育2013年版」 より作成。

特支学校設置基準

特支学校設置基準策定へ請願書県議会に7団体国などに提出求め/茨城

2020年11月17日【毎日新聞】

教室不足が課題となっている特別支援学校について、全国障害者問題研究会茨城支部など7団体は16日、県議会に対し、学校の設置基準の策定を促す意見書を国などに提出するよう請願書を提出した。特別支援学校には小中学校や高校で定められている設置基準がなく、過密化しても法令違反にならないなどの問題が指摘されている。

請願書では、県内の県立特別支援学校で89の普通教室が不足しており、学級が100クラスに及ぶ学校もあることを指摘。教室確保のために音楽室や美術室などの特別教室を転用したり、教室をパーティションで分割したりして対応しているという。

県立つくば特別支援学校の教員で研究会の寺門宏倫支部長は「特別教室がなくなることで、体験による学びがないがしろになっている。コロナ禍もあり少人数学級の実現は切実な課題だ」と話す。NPO法人「茨城の専攻科を考える会」の船橋秀彦理事長は「障害のある子どもがいる一部の親だけでなく、県民の皆さんに現状を知ってほしい」と話した。

文部科学省の審議会は9月、設置基準を設ける方針をまとめている。請願書は県議会の委員会が審査し、本会議で採択・不採択を議決する。団体は「請願の採択により、文科省の一歩を確実なものにしてほしい」としている。【韮澤琴音】

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特別支援学校では児童生徒の在籍数の急増に学校の新増設が追いつかず、全国各地で過大・過密が進んでいます。過大・過密が進んだ学校では、音楽室などの特別教室が普通教室に転用されたりしています。これは、他の全ての学校にある設置基準の法律が特別支援学校にないことが問題の背景にあります。政府も法律が必要だとやっと認識し始めてているようです。

子どもが減少しているのに特別支援学校の在籍者が増えているのは、軽度の高等部生と軽度の小学生です。前者は就労や将来の進路を考えて中学校の支援学級の進路指導が支援学校を選択肢に広げていることです。小学生の軽度の子どもたちは保護者が子どものいじめの懸念や手厚い指導を望んで、支援学校に途中転入するくらいなら就学を機に入学する傾向が増えてきていることも増加の原因です。

また、地域の小学校も特別支援教室に知的に遅れのない発達障害の子どもが入級してきて従来在籍していた中軽度の障害の子どもの対応が手薄になると、支援学校に転出してしまうことも原因として推測されています。

暑い!

京都、観測史上最も遅い夏日に111年ぶりの記録更新、25度超える「暑さ」

2020年11月19日 12:13【京都新聞】

朝から良く晴れた19日、京都府内各地は季節外れの「暑さ」となった。京都市では、午前11時57分に気温が25度となり、111年ぶりに観測史上最も遅い夏日の記録を更新した。

気象庁によると、正午までの最高気温は京都市で25度、京都府北部の舞鶴市と宮津市で25.7度。舞鶴市と宮津市も、史上最も遅い夏日となった。

京都市東山区の蹴上付近では、紅葉した木々の下、上着を脱いで手に持って歩く観光客の姿が見られた。

京都地方気象台によると、午前中は移動性高気圧に覆われて良く晴れたことに加え、朝鮮半島北部を東進する低気圧に向かって南から暖気が流入し、記録的に気温が上昇したという。

最高気温25度以上の夏日の最も遅い記録は、これまで京都市で1909年11月9日、舞鶴市で1957年11月11日だった。京都市は11月中旬では史上初の夏日となった。京都市の11月の史上最高気温は1923年11月1日の26.9度となっている。

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暑い暑いと暑がりのスタッフが言うので、「また暑い暑い言うて…」と温度計を見ると室内は27度!そら暑いわ。全員半そでになって過ごしました。この間、寒い寒いと布団から起きだせなかった子どもも今日は布団を蹴飛ばして早起きしたことだと思います。